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船内エピソード “シャル・ウィ・ダンス?”

 夕陽が沈んだばかりの早春の地中海。彼方にはイタリア半島の街の灯がきらめいている。
 夕食を終えたわたしは、軽快な生演奏に誘われてバーに入った。ダンスフロアではさまざまな国から来たカップルたちが楽しげに踊っている。そのとき、フロアの隅にたたずむひとりの日本人男性の姿が視界に入った。ダンスシューズを握ったその男性は、じっとフロアを見つめていた。ぼくのツアー客ではなかった。

“きっと奥さんを待っているのだろう……”

 しかし、いつまでたってもパートナーは現れない。どこか浮かない彼の表情が気になって、わたしはカウンターを立った。

「どうかしましたか?」
 声をかけると、彼(Mさん、60歳)は安堵の表情を浮かべて話してくれた。
「じつは、ダンス好きの妻といつか客船で踊ろうって約束していたんです。早く乗りたいとせがむ妻に『ならば還暦の記念に乗ろう』などと言ってしまって……」

 本当は船酔いが不安で、なんとなく先伸ばしにしていたのだそうだ。だが、ふたりの約束は実現されることもなく、2年前、Mさんの妻は突然の病に倒れ、他界してしまった。そして、Mさんは還暦をひとり洋上で迎えた。

「船旅がこんなに気軽で快適なものだって知っていたら、ここでヤツと一緒に踊れたのに……」
 ダンスシューズを握りしめたまま、悔みきれない思いを噛み締めるようにMさんはつぶやいた。

「よかったら、ぼくがダンスのお相手探しを手伝いましょうか。きっと同じようにひとり参加の女性もいるはずですから」
 フロアで彼にふさわしい相手を見つけるのはわけのないことだった。おそるおそる手を差し伸べるMさんに、ひとりのアメリカ人女性が快く微笑んで立ち上がった。自身に起きた急展開にあわてながらも、Mさんはわたしに何度も頭を下げた。

 客船の人気プログラムのひとつにダンス講座がある。チャチャやマンボ、サンバにルンバなど、日替わりメニューでレッスンが受けられる。参加費はもちろん無料、誰もが気軽に基本のステップをマスターできる。その場で出会った参加者がペアを組むので、ひとりで参加しても他の外国人乗客とすぐに仲よくなれる。客船によっては有償のレッスンプログラムを提供しているところもある。
 ダンス以外の文化講座としては、イタリア語やスペイン語などの外国語講座やパソコン教室などもある。

 1週間のクルーズも終盤に近づいた晩、バーに立ち寄ると、そこにはフロア狭しと踊るMさんの姿があった。お相手はもちろんあの晩の彼女だ。言葉の壁もなんのその、ふたりは息の合ったステップで踊っている。やがて曲が終わり、ふたりはぼくの席にやってきた。
「じつは私も最近夫を亡くしたの。彼のおかげでとても楽しい時間が過ごせたわ」と彼女。

「夫婦は必ずどちらかひとりが後に残されるんです。ぼくがいつまでも落ち込んでいたら、妻も喜びはしないでしょう。この旅は気持ちを切り替えるいいキッカケを与えてくれました」
 ふたりの言葉に、生きる希望までも与えてくれる船旅の素晴らしさを、わたしは改めて感じた。