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船内エピソード “正しいワインの注文の仕方”

正しいワインの注文の仕方

飲みたいストレス、飲めないストレス

  地中海の夕陽を眺めながらの、船旅初日のディナーの席でのことだった。
「お飲みもののご注文はございますか?」
 ディナーは決まってこの問いかけからはじまる。おいしい食事、楽しい会話にいいワインはつき物だ。3組の夫婦(いずれも60代)はじっと黙ったまま、互いの様子をうかがい、飲みたいのか、飲みたくないのかわからない。ソムリエも広げたワインリストを誰に手渡したらいいものか迷っている。勇敢なAさんがそっと手を伸ばすと、Bさん、Cさんもそれに続く。3人の男性がワインリストをめくる。しかし、長旅の疲れと時差ボケで頭がうまく回らない。

「では、初日ですからワインでもいただきましょうかねぇ……」
 しばしの沈黙の後、最初にリストを受け取ったAさんが口火を切った。
「そうですね、そうするとしますかぁ」
 Bさんも奥さんを横目で気にしながら、やんわりと同意する。
「やはり、グラスワインでしょうかね……?」
 Aさんは早くこの重苦しい間に終止符を打ちたい思いでグラスでの注文を提案した。

 
 航海初日のディナーはだいたいこんな感じで幕を開ける。慣れない外国客船に時差ボケが加わったところへもってきて、初対面で互いのことがわからないので牽制し合ってしまうのだ。
「では、私たちもグラスにしますかぁ? なぁ?」
 Bさんはまたしても奥さんに同意を求める。
「そうですねぇ、ならグラスワインの白か何かをいただきましょうかねぇ」
 ずっと沈黙を守っていたCさんも同調し、ぎこちないながらも3組はめでたく合意にいたった。
「では、みなさん、白のグラスワインでいいですかぁ?」
 ようやく意見がまとまり、Aさんはホッとして注文を伝えた。すると、ソムリエはAさんに言った。
「あのぉ、全員がグラスワインを注文されるなら、ボトルを1本とられた方がお得ではないかと思いますが……」
「は? では、そうしましょう、か?」
 Aさんが全員の同意を得る間もなく、ソムリエは「了解しました!」とばかりにきびすを返した。

 ディナーのメニューに先んじて配られるワインリストは英語表記ではあるが、たいていが「赤・白」「産地」「価格」で分けられているので見やすい。1本20〜30ドルから数100ドルのものまで多種多様あるので予算に応じて選べる。飲み切れなくてもボトルはキープしてくれるから、グラスで何杯も頼むよりははるかにお得だ。

 ほどなくしてソムリエはボトルを持って戻ってきた。慣れた手さばきでコルクを抜くと、スポンと心地いい音がした。
「テイスティングはどなたが……?」
 またしても妙な沈黙。しかたなくソムリエはにっこり微笑んで先ほどワインリストを最初に受け取ったAさんに注いだ。ひとくち含んだAさんが神妙な顔つきで「うむ……」とうなずくと、1本のワインは全員のグラスに見事なまでに均等に注がれた。

「乾杯!」

 ぎこちないAさんの発声でディナーがはじまった。
“やれやれ……”ようやくAさんの肩の荷が下りた。そのとき、ソムリエはワインの請求書にサインをもらおうとタイミングを見計らって近寄ってきた。またしても、Aさんにアプローチをかける。
“え? 何これ? みんなで分けたのにどうして支払いはぼくだけなの〜?”
 つい受け取ってしまったが、Aさんの表情は歪んでいる。でも心とは裏腹の言葉が口をつく。
「気にしないでください。今日のところは私のほうで済ませておきますから……」と。

 はじめて顔を合わせた3組の夫婦がお互いにどれだけ飲むのか、いや、そもそもお酒を飲むのかどうかさえわからない状況から初日のディナーははじまる。ワインが好きだからといって、自分たちだけでじゃんじゃん飲むのが果たして許されるものなのか、互いに遠慮もあるだろう。
 こんな初日特有の緊張感を一掃しようと、最近は旅行会社によっては、ディナーの最初の一杯をサービスしているところもある。ワインやビールなど、とりあえず乾杯のための一杯を気にかけなくて済むことで、緊張もほぐれ、テーブルの雰囲気も和み、話が弾むのだ。旅行者の心理を考慮したとても気の利いたサービスだと思う。その点、シルバーシー・クルーズやリージェント・セブンシーズ・クルーズはアルコールさえもクルーズ料金に含まれているから助かる。しかもシャンパンはポメリーなのだから、飲むのが好きな人にはたまらないだろう。

 洋上での楽しい時間を過ごしたいのは誰もが同じ。周囲を気にせず、飲みたいものを堂々と頼むのがいちばんだ。2、3日もして互いのペースがわかってくると、テーブル毎の人間関係も生まれてきて、日本人特有の美しい「注ぎ合い」の文化がはじまる。ただ、いくら船室が近いからといって飲み過ぎには気をつけよう。
 船旅慣れした外国人を観察していると、彼らはディナーの前から「洋上時間」を上手に楽しんでいる。観察してみると、とても参考になることが多い。

 食前酒としてカクテルやシャンパンを片手にウェイティング・バー(メイン・ダイニングの手前にあるバー)でパートナーや仲間と過ごす。ジャズピアノや弦楽四重奏など、洒落た生演奏を聞きながら……。
 ディナーテーブルについてからは、ワインリストから好みの一本を注文する。パートナーとふたりならメイン料理に達するまでにボトルは半分に減っている。残り半分はメイン料理とともに空けるのだ。締めくくりにブランデーやアイリッシュクリームなどの食後酒をいただく。ちなみに食前酒は食欲を増進させるために、また、食後酒は消化を促進させるために飲む。